マダガスカルでカラヲステル

マダガスカルでのインターンブログ

多くのことは思っているより難しくない-心理的限界と生理的限界-

 

手荷物を盗まれた。携帯電話、Wi-Fiモデムなど高価な電子機器までも完全に持っていかれた。みんながまとめて荷物を置いている場所に一緒に置いて、自分のだけが盗まれた。外国人というだけでどうやらVIP待遇をしてくれるらしい。ただそれをネガティブに捉えるのではなく、何かの暗示だと捉えるようにしている。先日記事で言語化した様に何かの運命であり、荷物を盗まれたことで見える世界があるはずだ。果たして鞄は本当に必要なのか?携帯電話は必要なのか?雨具は必要なのか?再考するきっかけを与えてもらった。ミニマルライフにより一層近づくことが出来た。そうやって必死に必死に自分を慰めている。

 

インターンとしてウェブページの刷新を行っていた。マダガスカルといえどインターネットは勿論利用することが出来る。スマートフォンを見かけることも多く、FBの利用者も多い。僕のインターン先の会社 Malaza Societe Generale は主に仲介業を行っている。特定の商材に絞っているわけではなく、様々な商材がオフィスに持ち込まれる。そのため適宜入れ替わる商材を、欲しい人向けに発信することがとても重要な仕事になる。主に口コミや社長の豊富な人脈が中心であったが、ウェブを通じて新規の顧客開拓やマダガスカル国外にもビジネスチャンスを広げる目的で作成に当たった。既存のウェブページはマダガスカルウェブデザイナーにより作成されていたが、今回僕は新たにそのページを作り直した。素人がプロフェッショナルに挑んだ。

 

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           Malaza Societe General

 

そもそもパソコン自体が好きではなく、大学生活で必要な最低限度の使い方しか知らなかった。社長からの依頼を受けマダガスカルに渡航前の一か月間、図書館に一日中籠って必死にウェブの勉強をした。ひたすらネットでネットを調べ続け、書籍を読んではキーボードを叩いた。ホームページ作成ソフトを使うことも出来たが、なぜか一から自分の手で作り上げないと気が済まなくて結果的に難しい道を選択していた。説明や解説を読んだところで、ウェブ用語が分からない。ウェブ用語をネットを使って調べると新たなウェブ用語で説明されており完全に蟻地獄に嵌まっている感覚に陥る。ひとつの作業が出来なくて4時間同じ作業を繰り返すことはざらで、一度パソコンが完全に動かなくなりリセットしたこともあった。

 

実際にマダガスカルでは簡易撮影キットを作り商材の写真を撮り、マダガスカルのイメージ写真を撮り、ウェブページを作成しては社長に見てもらい手直しを加えた。自分の蓄えた知識はウェブデザインのHTMLとCSSだけであり、手に負えないものが次々と現れた。マダガスカルでは従量制でネットを利用しているため、日本の時のように分からないことを調べれば調べる程お金がかかる。決してネット環境も良いとは言えず、身動きが取れない。お問い合わせフォームを作るにはPHPが必要で画像掲示板にはCGIが必要だ。全く分からない未知のプログラム言語を、お金がかかり過ぎない様最短のページビューで答えを導く。妥協しようかと思った。素人には難しすぎる。マダガスカル語・フランス語・そしてプログラム言語の3言語に苦しめられた。遠回りをたくさんして、時間は物凄くかかったが、なんとか公開に辿りついた。

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人は容易に難しすぎると考えてしまう。きっとこの世の全てのことはそこまで難しくない。自分の努力だけで完結することが出来るもの、スキルとして自分に蓄えることが出来るものは決して簡単なものばかりでは無いが、手も出せないほどのものは無いんだと思った。自分がすぐに壁を作って自分には出来ないと決めつけて、自分に出来ることだけに挑戦しがちなんだと思った。

 

高校時代のサッカー部の監督は“心理的限界”と“生理的限界”の話をした。心理的な限界を迎える時点では、身体的な限界には到達していない。心が折れさえしなければ、ピッチを駆け回る脚は止まらない。限界を作るのは常に心理的な要素であって、自分だ。全てのことにそして身近な小さいことにもこの言葉は通じていて、難しいと思った時点では脳味噌の限界には達していないのだ。監督の言葉が5年後にマダガスカルで活きるとは思っていなかった。

 

プロのエンジニアやウェブデザイナーから見たら取るに足らないHPかも知れない。ただ自分が得意ではないことに頭を抱えながら挑戦したという意味では、凄く価値のある実りのある仕事になった。HPを作ったことによる恩恵が会社にもたらされて欲しいと心の底から思っている。インターンとして会社に貢献出来たと胸を張って言えるようになりたい。

 

アタリマエの定義を探しに…

http://www.malaza-group.com/

運命を感じろ-予定運命説とセレンディピティ-

 

クリスマスが近づいてきた。キリスト教が多いマダガスカルでは年一番のイベントで盛大にお祝いをする。30度近い真夏のクリスマスは初めてで年末という感覚がまるでない。23年間生きてきた中で、無意識に年末は寒いものであるというカラを持ってしまっているらしい。街中は露店の数が増えて人でごった返している。地方からアンタナナリボに出てくる人も多い。街に人が溢れかえり、露店が道を狭める。交通渋滞が物凄いことになっていて移動が出来ない。更には年明けまでバスも規制されてしまう。クリスマスを前に僕のいる街は今、混沌としている。

 

先週、フットサルのマダガスカルナショナルチームの練習に参加してきた。文字にすると単純で味気ないものになるが、個人的には一国の代表チームに参加する物凄い経験をすることが出来たと思っている。日本で例えるなら、僕はキングカズこと、三浦知良と一緒に練習したことになる。ここマダガスカルにいると普通では考えられないことすら実現してしまうから不思議だ。

 

マダガスカルのフットサル代表チームは決して強いとは言えなかった。それは今年初めて結成されたチームであるからだ。高校時代サッカーでインターハイに出場したが最近は中々体を動かす機会が無かった。そんな僕でも十分についていけるレベルだった。しかし練習メニューはしっかりと体系化されていて、監督も試行錯誤を続けながらチームを纏めていた。物凄く体格の良い選手も多く在籍していて将来的にアフリカ大陸を制覇できるほどチームになって欲しいと心から思った。

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代表チームの練習参加のきっかけは完全に縁の巡りあわせだ。在マダガスカル日本大使公邸で日本人会の忘年会に参加した。その際に挨拶をした方の旦那さんがナショナルチームの監督だった。そしてその三日後に現ナショナルチームの最後の試合が予定されており、前日練習に参加したというわけだ。何人もいる中その方と話が出来たこと、社長のアシストを受けつつもスポーツの会話が出来たこと、チームの全体練習が残っていたこと、全てが偶然で何が起こるか本当に分らないなと常に感じる日々を過ごしている。

 

セレンディピティ”という言葉がある。

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見したりすること。また何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。予期せぬ偶然を掴むことが出来れば、自分が全く想像していなかった明日を切り開くことが出来る。ナショナルチームに参加することが出来たのもまさにセレンディピティだ。何かに追われるだけの日々を過ごしているのでは、目の前に落ちている幸運さえ取り逃してしまう。何かに追われていても、肩の力をすっと抜いてあたりを見回してみる。そこには予期せぬ幸運が転がっているかも知れないのだ。

 

ジャン・カルバンは人間には自由意志などなく、全ては運命にて既に決まっているという運命予定説を唱えた。決して否定的に捉える必要はなくて、何か思うように行かないときにふと思い出してみればいい。上手くいかない理由は、さらに先にある重要な運命に出逢う為の布石だ。出逢うべくして出逢ったセレンディピティを、何かひとつに固執しすぎて見す見す逃すのではなく、自ら先取しに行く。運命を感じ取りすぐさま視座を転換させてみよう。社長も運命予定説を信じていて上手くいかないことがあった時、何かの暗示と捉えアクションを変えるという。先日もそのアクションが功を奏し、縁を手繰り寄せていた。

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フットサルナショナルチームの練習に参加したのは偶然ではない。マダガスカル渡航を決めた瞬間から決まっていて、セレンディピティが舞い込んだ必然なのである。思えば、インターンを探していた時、15人近くの海外で働く社長にメールを送り、受け入れ決定が直前でひっくり返ることが二度ほどあった。全てがマダガスカル渡航の布石だったのかも知れない。それらが決まっていたら僕はマダガスカルでのインターンの検索すらかけていない。

 

予定運命説を考えると、この後のマダガスカル滞在が物凄く興味深く思えてくる。どのような運命に導かれ、どのようなセレンディピティを掴むのか。更には人生がどのような運命に流され、どのような場所に漂流するのか。全てを神頼みに努力を怠るのではなくて、ふとした暗示を肌で感じることが出来る様、アンテナを常にはるつもりだ。

 

アタリマエの定義を探しに…

辛さを知っている人は優しい-人は表裏一体-

 

マダガスカルに滞在し始めて二か月が経過した。日本に帰りたいというホームシックは全く無くて、東京の生活より当然ながら不便なことが多いが東京の生活より快適に生活できている気がしだしているから不思議だ。綺麗なところも醜いところも包み隠さず表現してしまうマダガスカル人に人間味を感じる。もちろんイラッとする出来事も多いが…。

 

僕のマダガスカルでの生活は完全に周りの人に支えられている。社長をはじめ、ホームステイ先の大家さんや家族、会社のスタッフ、一緒に剣道をする仲間。親元は確かに離れているが、マダガスカルの母親や父親、家族のような方と一緒に過ごしている。親元を離れ自分の力だけで生きることを自立だと思っていたが、人はひとりで生きることなんか不可能で両親以外に頼れる存在を見つけて共立することも自立のひとつの形なんじゃないかと思った。

 

兎にも角にも携わってくれている全ての人が優しい。誰にでも優しい人間になりたいと思った。この感情はとても自然な感情で優しくされると優しくしたくなる。正の感情は正の感情を育んで好循環を生む。インドにこんな諺がある。「人に迷惑をかけて生きているのだから人のことも許してあげなさい。面倒を見てあげなさい。」インドに行った時の経験上彼らは人に迷惑を掛ける天才で憎たらしいことも多々あったが、日本の「人に迷惑をかけてはいけません」という教育と対照的にこの諺はとても素敵だと思った。まさに正の連鎖だ。

 

歯車が嵌まれば好循環を生む。ではその歯車は何であろうか。優しさを始めに振り出す人はどのような人なのであろうか。最近社長をみながら“辛酸を舐めた経験”がキーワードになるんじゃないかと思っている。

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社長の周りには人が集まる。本当に理解の範疇を越える程ぐらい国籍もバラバラな多様な人が集まる。現役パイロット・キャンペーンガールのお姉ちゃん・大臣・果物を売るおじさん・王族の末裔・僕の様な日本の大学生までもが集まる。日本の国会議員や総合商社の支社長とも会う機会があるそうだ。インターンをする上で掲げたテーマ。それは“人を巻き込む力”を学ぶことだ。社長と一緒に過ごす中で“優しさ”みたいなものがやはり重要な要素になっていることを実感し始めている。母性の優しさでは無くて、言わば父性の優しさみたいのものだ。社長の経験は壮絶だった。時の運に幾度となく翻弄され、人に裏切られ、今も尚困難に直面している。数え切れないほどの辛酸を舐めている。社長は決して表情が柔らかい方では無い。決してフランクな言葉遣いをする方でも無くて、当初は話しかけるのに少し躊躇してしまっていた。しかし、今まで会ってきた誰よりも物凄く相手のことを慮る父性の優しさで満ちた人であることは間違いない。それが人を惹きつけ、社長の周りのコミニュティに好循環を生み続けている。

 

 

辛い経験をした人は優しい。辛いときに自分を救ってくれた相手の言動や心遣いが、心に深く刻み込まれているからこそ本当に優しくなれるのかも知れない。人の痛みが分かる人間になれるのかも知れない。優しさの好循環を生む最初のファクターはまさにこれだ。そんな気がした。僕にはまだまだ到達できない境地だ。

 

人の性格や態度は全て裏返しだ。きっと優しさだけに留まらない。芯の強い人は自分の弱さと真正面から戦った人であるし、決断力が優れている人は幾多の苦渋の選択を経験した人だ。冷たい人は優しくされることを当然に思っている人であるし、嘘をつく人は誰かに騙されて傷ついたことすらない人だ。最近内定先に満足出来ず入社を迷っている子の話を聞いた。当てはめて考えてみるときっと過去に満足してしまっているんだと思った。

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誰しも必ずひとつは持っている“辛酸を舐めた経験”を噛みしめる。

人の痛みが分かる人間になること、それが人を惹きつけるうえで凄く大切なのかもしれない。

 

アタリマエの定義を探しに…

何もかも捨て去ろう-より少ないことはより豊かなことである-

 

ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエはスペインに世界モダニズム建築三大聖地のひとつ、バルセロナ・パビリオンを建築した。まさにシンプルそのものの作りで、かの有名なサグラダファミリアを建築したガウディと同国・同時期の人物であることに違和感を覚えてしまう。全ての無駄を省いて作り上げた作品と共に彼が残した言葉、それが“Less is More”だ。

「より少ないことはより豊かなことである。」

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以前、スーダンで医療活動を展開するNPO法人ROCINANTESの代表である川原さんにお会いして話をさせて頂く機会があった。スーダンで数多くの命を救い、困難な状況においても決して屈することのないその姿勢をとても尊敬している。情熱的なラガーマンで食事までご一緒させて頂いた。その時彼の言葉を今でも鮮明に覚えている。

“東京には何でもあるけどなんかない”

スーダンには何にもないけどなんかある”

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曹洞宗大本山永平寺に3泊4日で山籠もりをして修行をした。座禅とは宇宙と一体化すること。朝の3時から足を組み、梅干し・沢庵・御粥の食事を取る。私語は厳禁でお経を二時間読む。足を組み始めた瞬間は空腹・眠気・股関節痛、次から次へと邪念が生まれる。しかし、足の痺れが脳を完全に支配した瞬間に、時間にして約10秒度まるで自分がその空間に溶け出した様に・染み込んだ様に全ての感覚が無くなる瞬間が訪れる。逃げようのない痛みが他の邪念そして痛みまでをも消し去った。ひとつの揺るぎないものが、他の要素をそぎ落とす。何でも良い、ただひとつの揺るぎない何かがあるからこそ断捨離が可能なのかもしれないと思った。

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ムルンダヴァに行く道のりは車で12時間。悠然と広がる大地にポツンと車一台が疾走する。人間が限りなくちっぽけに思えるほどの大地に圧倒された。もちろん12時間の道のりの間に街を通り村を通る。その中に本当に小さな集落と呼ぶのすら憚れるほどの家が3、4軒立ち並ぶ場所があった。隣の村までは車で一時間以上かかるような場所に土と藁で作られた家で生活をしている。ものを買うことはおろか、仲間以外の人に会うことすら困難に思えた。必要不可欠なもの以外彼らは所有していない。しかし、彼らの表情は美しかった。

 

3つの言葉そして美しく映えた彼らの表情を見て“所有”という言葉を捉え直してみた。所有する“モノ”は人によって様々であり物質だけに限らない。常識や習慣、考えや情報だって脳が所有する“モノ”だ。

 

所有というのは満足感を伴う行為である。ひとつの所有は更なる所有欲求を生み、満足感が更なる満足欲求を生む。多くのものを持ちすぎると、小さなものを手に入れても満足を感じることが出来なくなってしまう。常にどこか満ちたりず、物足りないような表情を浮かべる

対照的に持ち物を減らすと、所有できたときの喜びは大きい。もしひとつの揺るぎないものを胸に抱けば、断捨離の様に他の欲求は削ぎ落ちる。日々の小さな満足感で心は満たされてにこやかな表情が宿る。彼らの顔に光が宿っていたのは、家族の存在・友人の存在が揺るぎないものになり、僕は見落としてしまう様な幸せ・喜びを知っているからかも知れない。

 

情報多過の時代に生きるからこそ、“モノ”は全て捨て去ってしまえ。モノを持つことは同様にモノに持たれることであることを忘れてはならない。所有は人を縛る。揺るぎない大切なものだけは絶対に捨てることは出来なくて、それだけを唯一の存在として胸に抱けばいい。生まれてくる瞬間は何も持っていないし、眠りにつく瞬間だって何も持つことは無い。何でもある東京は不必要な“モノ”でさえも所有できてしまう。自分をどこまでも身軽にし、小さな感動を味わい尽くして生きる。不必要なものは身に着けない限りなくミニマルなライフスタイルは、小さな幸福を積み重ねることで所有の先にある幸福をも凌駕する。

 

途上国を経験すると多くの人が感じること。

「日本と比べて決して物質的に豊かとは言えないけど、人々の目が輝いていた。」

「日本人は豊かな生活をしているが目の輝きは劣る。本当の豊かさとは何だろうか」

僕はその難問の答えのひとつは所有で説明できるような気がしている。

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“Less is More”より少ないことはより豊かなことなのだから。

 

アタリマエの定義を探しに…

旅のしおり-衝撃的だったこと-

 

最近は割とネットを使うことが出来る機会が多い。ネットを使って友人と会話が出来て、分からないことがあったらウィキで調べて、興味があるテーマを独学で勉強することが出来る。ネットは神だ。スマホが普及して誰でもアクセスする時代になったが、かえってアクセス出来ない環境の方が効率良く適切に使える実感をしている。日本ではスマホをいじる人に嫌悪感を覚え“スマホを使っている人を否定するなら自分が使っていたらおかしい!!!”と携帯を解約するほどだったが、最近は“めっちゃ便利じゃん”と思い始めてまたひとつマダガスカルでカラヲステそうになっている。

今回は旅行中に衝撃的だったことや印象に残ったことをまとめます。

 

①タクシーブルース

十二時間の移動はおんぼろのバン。え、誰かサスペンション盗んだ?っていうほど揺れる。え、誰かコンクリート持って帰った?っていう程道に穴が開いている。夕立の際に真っ黒のビニール袋を完全に頭から被り、持ち手をを完全に首のところで縛って歩いているおばちゃんを見て以来、常識で物事を考えないようにしてる。運転手が個人的な用事でバンを停めたり、“ちょ、わりぃブレーキ踏んでてもらっても良い?”って頼まれたけどへっちゃらさ。

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②日焼け止め

アンタナナリボは高地であるためそこまで気温が上がらない。対照的に日差しが強く気温が高くなる地域もある。ムルンダヴァはとても日差しが強く、真っ黒に日焼けをして帰って来た。現地の女性たちは顔になんか塗ってる。民族的な何かなのかなあと思ったがどうやら日焼け止めらしい。日焼けするより土みたいなのを顔に塗る方がよっぽど恥ずかしい気がするのは僕だけでしょうか。

 

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③人間の驚異的な順応能力

ホームステイ先のトイレのインパクトが凄かった。今までに自給自足の村やゴミ山で生活をしていた人たちの家にホームステイをしたことがあるが、過去一を記録した。扉の概念がない。よく日本のお風呂場で見かけるようなすのこに穴開けただけ。地面を掘りもしないから距離めっちゃ近くてすぐそこにいる。雨降ったら下から上がってきて悲惨。因みに僕は特異体質なのか抵抗は全く無い。シャワーも家の庭で全裸で水をかぶるだけ。シャワー浴びた後の方が足に砂が付いて汚れる。深夜に何かが屋根に衝突して物凄い音がしたり、マラリア予防の蚊帳の中に蚊がいたりする。裸電球があるにはあるけど毎日停電するからもはや電気は無い。もう何にも気にならなくなるから人間は凄い。

 

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④今どきのマダ人はか弱い

途上国の人ってどこまでも逞しくて生命力に溢れてるイメージがあった。一緒に旅した二十歳の彼の場合は違った。汚いトイレにはいけない・ハエが耳元を通ると“わあああ”って言うほど虫が怖い・めっちゃFB見る・朝なかなか起きない・セルフィーばっかりする。最近の若者は全く…。三歳年上のお兄さんはそう思ったよ。

 

国立公園ガイドが完全に猿

国立公園で動物を見に行くときには必ずガイドが付く。森の全てを知り尽くしていて、何か見つけると細かく解説してくれる。近くで動物の鳴き声がしたので、ガイドに“何か鳴いてるよ!”って言ったらガイドのおっさんが鳴いていた。今度はさっきとは違う鳴き声がしたから“また何か鳴いてるよ!”って言ったらまたおっさんが鳴いていた。この森で見ることが出来る動物って看板におっさんの名前載せても良いと思う。マダガスカルキリスト教が普及してるけど、絶対人間は猿から進化したと確信した。

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⑥石が売ってる

マダガスカルは宝石や輝石が有名だ。石が売っていると書くとなんか高価で希少性がある石を想像するが、角が取れた川辺でコロコロしてる石が売られている。タクシーブルースがスピードをガンガン出して通るような何もない道の傍で売っている。旅行者や田舎へ帰る人には行きで買うには重すぎるから買わない。旅行や帰省の帰りでも“じゃあお土産に石でも買って帰るか!喜ぶだろうな~”ってなる人いる?そもそもバンが停まらないから買えないし、もっともっと大前提に戻ると川で拾えるじゃん。

 

数えだしたらキリがないくらい二度見することに毎日遭遇したし、している。ただ恐ろしいことに感覚が麻痺して違和感を覚えなくなってきている。この前はカップル揃ってバイクのヘルメットを被ったまま食堂でご飯を食べていたし、赤ちゃんに授乳するつもりなのは良いがなぜか両乳出している人がいたり、オフィスに便器を磨くブラシを持って現れるお客さんがいたりと謎が多い。世の中には色々な人がいる。

 

アタリマエの定義を探しに…

NatureとNatural-人の本来の欲求が溢れ出す-

 

“Nature”に触れると人は“Natural”になる。

言葉を失うような大自然を前にすると、人が本来心の奥底に秘めている感情が溢れ出して自然体になることが出来る。

 

六月に屋久島にトレッキングをしに行った。十時間山道を歩く過酷なトレッキングだが、大地と水が育んだ樹齢何千年の屋久杉は壮観で期待を裏切らなかった。そしてひとりで何も決めず当てもなく訪ねたが、結果として非常に多くの人と触れ合い一人で食事をすることは一度も無かった。バス停で出逢った方たちとは本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。山ですれ違ったおじさんとは一緒に深夜までお酒を飲みながら話をした。宿の女将さんは家に招待してくれて手料理をご馳走してくれた。宿で出逢った方は翌日車で観光案内をしてくれた。言葉にすると恥ずかしいぐらい僕は毎回人の優しさに甘えている。

 

ムルンダヴァのバオバブ並木は絶景だった。朝日を浴びる姿、夕日に染まる姿、どれをとっても地球上にこの景観が残っていることが誇りに感じられた。モザンビーク海峡に沈む夕日を見て、猿たちが住む森へ入る。漁村で地引網を手伝い、零れ落ちそうな満点の星空を見上げて目を瞑る。自分が異空間にいるような気がしたり、逆に今まで自分が異空間にいてやっと安らげる場所に帰って来たような気がしたりした。

 

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その瞬間に心の奥底に秘めている感情が溢れ出す。

“今自分が目の当たりにしている風景を大切な人に見せたい。”

“この感動を隣にいるあなたと共有したい”

“この景色を自分の孫の世代にも見て欲しい”

 

言葉を失う様な大自然の絶景を前にするとなぜか心がオープンになる。それはこの絶景を誰かと共有したい、誰かと心を通わせたい、誰かと一緒に喜びを噛みしめたいという人間が本来持っている欲求が湧き出るからだ。大自然に囲まれると日々の生活や社会で生き抜くために作り上げられた免疫が崩れ落ちる。母なる大地に戻って来たという感覚が、不必要で異質なものを綺麗さっぱり洗い落としてくれる。人は心の底では相手との繋がりを求めて、助け合いながら皆が幸せに暮らすことを願っているのだと思う。真相は定かではないが“Nature”という言葉から“Natural”という言葉が派生したのは、自然を前にすると自然体になる、そんな意味が示唆されているのではないかと思っている。

 

一般的に東京の人間は冷たいと言われる。そして対照的に田舎の人々は優しいと言われる。きっとその理由は単純だ。田舎の人は自然に触れて“Natural”だからだ。屋久島での出来事が特に印象的だったのは、現地の人だけが優しいのではなく触れ合った優しい人たちの多くが都会から来た人々だったことだ。自然に触れて人と接したい・人と話したい、そんな気持ちになるのだろう。首都であるアンタナナリボではスリと強盗には十分注意しなければならない。田舎であるムルンダヴァにはそんな人はいないと言われた。これが身に着けていた異質で不必要なものが抜け落ちた、底抜けに優しく・人懐っこい人間の本来の姿なのだ。

 

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自然と向き合う。

見失った自分を取り戻すのは風の息吹であり、海の囁きであり、雨の潤いであり、山の厳しさであり、太陽の温もりであり、月の明るさであり、そして人の優しさである。

 

アタリマエの定義を探しに…

アンパンマンになろう-ムルンダヴァで感じたお金と感謝の関係性-

 

先日、急遽前日に日程を決めてムルンダヴァへ国内旅行に行った。ムルンダヴァはバオバブ並木が有名で日本人なら一度は目にしたことがある絶景のひとつだ。社長に相談したところ「アンタナナリボ以外の都市を見ることも勉強のひとつである」と物凄く忙しい中でも快諾して頂き実現した。本当に感謝している。この旅行で物凄く多くのことを感じ、物凄く多くのことを考えた。人間の持つ汚い欲求であったり、人の持つ美しく素晴らしい欲求であったり。この感情を言語化するのは本当に難しい。

 

今回の旅行は2軒の家で計4泊ホームステイをさせて頂いた。マダ人の日本語ガイドのご厚意で無料で旅行案内をして頂いた上に、親戚の家と友人の家にお世話になってしまった。どうしてこんなにも未熟で足らない自分に愛情を注いでくれるのか深く内省してしまう程、本当に本当に本当に人々優しさに溺れしまった。

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しかし、この旅で嫌悪感を隠し切れず表情を歪めた瞬間が三度あった。

“お礼にお金を置いていきましょう”

“ガイドのお礼にチップを払いましょう”

“今日頑張ったからお礼としてチップをくれないか?”

 

ケチな人間と思われても、エゴの塊だと思われても、日本人は嫌いだと言われても構わない。僕は感謝の気持ちとしてのお金は絶対に払わない。誤解を恐れずに言うならば、チップの習慣を持ち気前よく払う人米人や欧米人を見て、浅はかで醜い人間だと思っている。感謝のお金は何も生まない。物事を陳腐に、醜く、薄っぺらく、そして無価値にする。僕はビジネス的な金銭取引や貨幣経済を否定しているわけではない。お金は無くてはならない存在であるし、金銭をひとつのツールとして社会貢献や経済活動を担うのは言うまでも無く人々の生活を豊かにしている。レストランで次来た時の待遇を逆算してチップを払う人も好きにすればいい。ただ、お金に変換できない価値の対価をお金で払うことに対しては物凄く嫌悪感を覚える。お金という紙切れの価値を過信して何事もお金で済ますことが出来るという概念が大嫌いだ。感謝を示す手間を省くためにお金で解決をするという選択を行使している様に見える。お金にその人の気持ちが宿るとは僕には思えない。

 

恋人が誕生日プレゼントに現金を持って来たらどう思うだろうか?

卒業式でお世話になった先生にお金だけを渡すだろうか?

母の日・父の日にお金だけ渡して何を感じるだろうか?

 

溢れ出る優しさや厚意の対価は、溢れ出る優しさや厚意で返せばいい。何度も同じ言葉を繰り返すようだが大切なことは常にシンプルだ。自分が出来ることを心を込めて全うすればいい。歌が得意なら気持ちを込めて歌を歌えば良い。笑顔を作ることが出来るのならば心を込めて微笑めばいい。何も出来なくたって心を込めてありのままの姿でそこに佇めばいいのだと思う。人間が心の底から幸福を感じる瞬間はお金をもらった瞬間ではない。自分の施しを相手が真摯に受け取ってくれた瞬間・自分の施しを相手が喜んでくれた瞬間である。感謝とはそれを心を込めて示すだけで良い。

 

アンパンマンを思い出して欲しい。アンパンマンはお腹が減っている子供(動物?)がいたら、顔をもいで食べさせてあげる。決してお金をあげて食べ物を買いなさいとは言わない。上手く言葉に出来ないし適切な例示か分からないがこれに物凄く近い気がする。身を削ってまでも自分にしか出来ないことで相手へ施す。アンパンマン式御礼法。これが最も重要で最も感謝の気持ちを示す方法だと考えている。

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僕は日本語を流暢に話すことが出来る。日本人だからだ。日本語を勉強したいと話した彼に夜遅くまで心を込めて日本語の授業を行った。僕は一眼レフカメラを持っている。家族を愛する彼らには家族写真を心を込めてたくさん撮ってプレゼントをした。僕がしたふたつのことは僕がいなかったら出来なかったことだ。

 

相手の心遣いをお金だけで返すのは失礼だ。そしてチップのような形でお金をもらうことで喜びを感じてしまう人も可哀想だ。彼から貰ったお金と彼女から貰ったお金は同等の価値しかない。しかし、彼にしか出来ない施しと彼女にしか出来ない施しは価値が全く違う。

 

お金で人を繋ぐのは難しい。心を込めた施しで人を繋ぐのは容易だ。

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アタリマエの定義を探しに…